監督 岩松了
キャスト オダギリジョー、麻生久美子、原田芳雄、小林薫、大竹しのぶ
2008年 日本
あらすじ 奥手な息子と過去を引きずる父親が、麗しきマドンナとの結婚という一大イベント成就に向けて奮闘する。
評価 ★★★★☆
よく練られた脚本。無駄なシーンが無くよくできている。
母を若くして失ったオダギリジョーと、父を若くして失った麻生久美子。ふたりがうまく対比して描かれている。
オダギリは母を理想の女性として胸に抱いている。
そのため、見合いをしては母と比較してしまうため、結局話はまとまらないし、父が恋人を作っても、それも母と比較して遠ざけてしまう。ラストシーンでは、大竹しのぶを父の再婚相手、自分の母親として相応しくない姿を見てしまい、ショックを受け逃げ出し、最終的には母の幻影を追って姿を消してしまう。
対して麻生久美子は、理想の男性を原田芳雄と重ね合わせている。
麻生が初めて原田と会ったときも「囲碁が好き」と言っていた。が、実際にはズブの素人であるオダギリと対局して負けてしまう程度の腕前だった。囲碁が好き、というのは嘘だったわけで、それは原田の気を引くためだったのだろう。他にも、原田のために会社の送別会を抜け出してきたり、誕生日プレゼントに「瞳」のネーム入りのネクタイをあげたり、結婚式当時に抱きついたりと、いずれも義理の父に対する行動とはおもえない。
ネーム入りのネクタイを見て驚く原田
亡くなった片親を忘れることのできないこのふたりだが、決定的に違うことがある。それは「愛情」の方向性だ。
オダギリは母に対する愛情は心の奥底、深層心理として存在しているだけで、表面的には「父」を愛している。自分のせいで父は再婚ができず、食事の用意、洗い物、掃除等の家の仕事を全て父がひとりですることとなっている。
この自分が犠牲になって父の幸せを奪っている、という罪の意識がどこかにあるために結婚すれば父が再婚する障害は無くなると考えていたに違いない。
大竹と小林薫のキスシーンを見て衝撃を受けたのは、父が大竹と結婚できない、という意味の衝撃であり、自分だけが結婚してしあわせになるのに、父はふしあわせのまま、ということが許し難かったために、逃げ出してしまったのだろう。
このオダギリの行動は全て父親への愛情が現れているのだが、母の浴衣を着た麻生に、母の姿をダブらせて欲情したり、ラストシーンで父を放っておいて母の幻影を追いかけたりと、深層では父よりも母を愛しているように思える。
瞳はひとえに「父」のみを愛していた。それが恋愛としての「愛」か博愛としての「愛」かははっきりと描かれていないが、原田は結婚式の日に抱きつかれたときに恋愛の「愛」を感じ取ったのだろう。
そして、「父」を求めるために結婚をする瞳、「父」のしあわせを願うために結婚をするオダギリ。このふたりの関係に違和感を感じ、破綻すると原田は考え、オダギリのしあわせのために逃げ出すことを考えたのだろう。
だが、結局このふたりはしあわせになれたのだろうか?
ラストシーン、教会から逃げ出すシーンは映画「卒業」のパロディとなっている。
卒業では、望まぬ結婚を行おうとする女性を、男性が連れ出すわけで、愛し合ったふたりが結ばれるハッピーエンドなっている。
「たみおのしあわせ」では、愛し合っていない者同士が結婚をしようとしている、という点は卒業と一致している。親子の愛ではあるが、愛し合っている者同士が連れだって逃げ出すというのも一致してる。
だが、決定的に違うのは、ラストに母親の幻影が現れるところである。
ここでオダギリは父を放って一目散に母を追いかける。これは父よりも母を愛していることを表している。
オダギリは「母さん」と呟き、原田は息子を呼び止めようと「民男」と叫ぶ。
オダギリは母を愛し、原田は息子を愛している。両者は愛し合っていない。卒業のようなハッピーエンドとはなっていないのだ。
ラスト、母親は背の高い茂みへ姿を隠す。それでもオダギリは躊躇無く後を追い茂みの中へ入る。姿が見えなくても、どこへ行ったか分からなくても追いかけずにはいられない母への愛。
父は、そんなオダギリが茂みの中へ入っていったのを見て、こちらも躊躇無く後を追いかける息子への愛。
高くて先の見えない茂みは、その愛している相手をつかまえることができないことの暗示だろう。
死んでしまった母の幻影を追いかけるオダギリ。そのオダギリを追いかける父。決してふたりはしあわせになることはない。いったい「たみおのしあわせ」はいつくるのだろうか……。いつくるかわからないまま、そして夏がきた……。
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